食の研究所
漆原 次郎(フリーランス記者) 2019年05月24日
ゴボウが日本人にどのように栽培されるようになったか。その歩みも文献の記述からうかがえる。
承平年間(931-938)につくられた辞書『倭名類聚抄』に「牛蒡」が出てくるのは「蔬菜部」の「野菜類」において。この部には「園菜類」もある。ここから、北海道開拓記念館元学芸部長の山田悟郎氏は、当時のゴボウは畑で栽培されたものでなく、山野で採られた山菜だったと考えられると推測する。
では、ゴボウが栽培されるようになったのはいつごろか。京都の東寺に伝えられた古文書『東寺百合文書』には、鎌倉時代中期の1266(文永3)年における丹波国の大山庄領家の注文事として「牛房五十把」また「山牛房卅本」の記述がある。ここから「山牛房(やまごぼう)」だけでなく、栽培された「牛房(ごぼう)」も存在したと見ることができる。
つまり、この2つの文献から、平安中期から鎌倉中期の間に、ゴボウが栽培されるようになったことが推察できるわけだ。世界で日本だけとされるゴボウ栽培を、まさにこの時期の日本人が成し遂げたことになる。
収穫後のゴボウ。
江戸時代に誕生した滝野川ゴボウが、
その後、日本各地に広まっていく。
その後、江戸時代にもなると、日本の各地でそれぞれに特徴を持ったゴボウが栽培される時代となった。今の千葉県匝瑳市大浦地区に古くから根づいていた「大浦ゴボウ」、石川県七尾市の沢野婆谷神社の神職が京都からコボウの種を取り寄せて植えたのが始まりとされる「沢野ゴボウ」、山口県美祢市美東町の赤土を利用した「美東ゴボウ」などだ。
そうした中、元禄年間(1688-1704)、江戸の北豊島郡滝野川村(今の北区滝野川)では、鈴木源吾という人物がゴボウを改良し、栽培に取り組んだ。当地は水田に乏しかったが、やわらかな黒土に覆われて水はけはよく、畑作には適していたようだ。そこで、根の長い大きなゴボウが作られた。そして地名から「滝野川ゴボウ」と呼ばれるようになった。
鈴木はゴボウの種子を売ってもいたらしく、その後、滝野川ゴボウは日本の各地に広まっていった。各地でその後、生まれた品種の多くには、滝野川ゴボウの系統が含まれるようになり、今や日本で栽培されているゴボウの種の9割は、滝野川ゴボウの系統に関係しているともされる。
食材としてのゴボウにも目を向けてみたい。中国からの影響を受け、当初は日本でもゴボウは薬用として使われていたとされる。
料理にゴボウが使われていたことが分かる最古の文献は、平安時代の1146(久安2)年ごろ作られた、恒例・臨時の儀式、行事における調度についての記述『類聚雑要抄』にある。1118(元永元)年9月24日に供された宇治平等院御幸御膳のうち「干物五杯」の字の下に「海松(みる)、青苔(あおのり)、牛房(ごぼう)、川骨(かわほね)、蓮根(はすのね)」と並んでいる。その後は、南北朝時代から室町時代にかけて成立したとされる教科書『庭訓往来』の中で「煮染牛房」と記されている。ゴボウは煮物の材料だったようだ。
1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。
<記事提供:食の研究所>
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