食の研究所
漆原 次郎(フリーランス記者) 2018年11月19日
立冬を過ぎて寒さが増すと「大根」の出番が多くなる。おでんでの存在感はもちろん、ブリ、イカ、牛肉などとの相性もよく、煮物全般に大活躍する。頬張れば、柔らかい歯ざわりのとともに、熱い出汁がしみ出してくる。
大根が主役にもなるこの季節、あらためて日本における大根の歩みを追ってみたい。いまは、根の上部が緑色を帯びた「青首大根」が私たちの抱く大根像かもしれない。だが、各地にはゆかりの地名などを冠した大根が多様に存在してきた。
今回はそうした「大根の多様性」をテーマに歴史と現代科学を見つめてみたい。前篇では、日本の大根の歴史を追う中で、大根の多様性がどのように生まれたのかを探ってみる。そこには、大根という「大きく重たい作物」故の理由も見えてくる。後篇では、先端科学の視点から追ってみたい。2010年代に「ダイコンゲノム」が解読され、遺伝子レベルで大根の多様性の解明が進んでいるという。研究者に話を聞くことにする。
日本の大根は大陸から伝わってきたとされる。大根の種は腐りやすいため、化石として遺りにくく「何年前の遺跡から発掘」といった成果は上がってこない。ただし、土中の花粉には大根の属するアブラナ科のものが多く見つかっており、稲作より前に大根は日本に広まっていたとする説もある。
大根についての最古の記録は、712年成立の歴史書『古事記』における仁徳天皇の歌にある。
<つぎねふ山城女の木鍬持ち打ちして淤富泥(おほね) 根白の白腕(しろただむき) 枕かずけばこそ 知らずとも言わめ>
この歌は皇后に向けて詠んだもの。「淤富泥」が大根を指す。「木の鍬で育てた大根のように白いあなたの腕を枕にしたことがなければ、知らないと言うだろう」と歌っている。昔は「大根」を身体のよい喩えに使っていたようだ。仁徳天皇が在位していたとされる4世紀、すでに木鍬で大根が育てられていたこともうかがえる。
平安時代中期の律令を定めた『延喜式』にも大根の記述がある。当時は「蘿菔」と書いて、やはり「おおね」とよんでいた。<営蘿菔一段。種子三斗。惣単功十八人>などとある。大根の畑1段分につき18人の労力を使ったといった栽培法が記されているのだ。
1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。
<記事提供:食の研究所>
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