食の研究所
漆原 次郎(フリーランス記者) 2016年06月20日
「梅干」という言葉が書物で見られるようになるのは鎌倉時代あたりからだ。鎌倉時代に正玄という人物が著した食事作法書『世俗立要集』には「武家の肴のすえよう」として「梅干」が登場する。中国で「鴆酒(ちんしゅ)」という毒酒を飲んでしまったときの薬として梅干が用いられていたことを引き合いに、武士が万一、毒を盛られた食べものを食べてしまったときには膳に置かれた梅干が頼りになるという旨のことが記されている。
梅干は古くからあった。だが鎌倉時代ごろまでは「梅干」の記述は見られない。このことからすると、梅干はまださほど人々に浸透していなかったと考えられる。その理由に考えられるのが塩の希少性だ。塩田が発達していなかった時代には塩も貴重品だった。梅干を漬けるために大量の塩を使うことなどもっての外だったのだろう。
戦国時代になっても梅干は武将に重宝されていた。戦のときは梅干を常備していたのである。食べることもあっただろうが、生水を飲んだときの殺菌や傷の消毒のために、さらには見ているだけ口に唾が溜まることから喉の渇き対策のためにも使ったと伝えられる。
その後、江戸時代になると、潮の干満を利用した塩田の開発や、鉄の平釜を使った製塩法の普及などで、塩が徐々に庶民のものとなっていった。ついに梅干も庶民の食べものになっていったのである。
赤い梅干と白い梅干
もう1つ、江戸時代には梅干の進化史における大きな出来事が起きる。元禄年間(1688-1704)頃、しその葉で着色した「赤い梅干」が発明されたのだ。いまでは、「しそ付きの赤い梅干こそが梅干」というイメージがあるが、それまで梅干といえば白っぽいものだった。1697(元禄10)年、医師の人見必大(1642頃-1701)が著した本草書『本朝食鑑』には「生紫蘇の葉を用いて之を包むものは紅活光潤で、またもって珎とする」とある。「珎」は「珍しい」の意味。しその葉で着色した梅干は、世に出たてだったのだろう。
梅干をたくさん作るには、梅の実もたくさん必要だ。そこで梅の栽培の歩みにも目を向けてみたい。
現在の果実用の梅の一大産地といえば、和歌山県だ。2位の群馬県や3位の神奈川県の10倍以上の収穫量(2015年産)があり、全国シェアは6割以上になる。
江戸時代初期の1620年頃、紀伊田辺藩(いまの和歌山県田辺市)では、米に不適の土地柄から、農民が年貢を収めるのに苦労していたという。竹や梅などしか育たないような土地の作物は租税対象外だったことから、農民たちは、やせ地や山の斜面を利用して梅を栽培することになった。
1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、医学・医療分野を含む科学技術関連の記事を寄稿。日本科学技術ジャーナリスト会議会員。
著書に『日産 驚異の会議』(東洋経済新報社)、『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』(洋泉社)、『模倣品対策の新時代』(発明協会)など。
<記事提供:食の研究所>
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